単独の生き様

単独について考えるブログです。単独について私の考えを不定期ではありますが、ツイートさせてもらいます。

胡蝶の夢。単独に。

こんにちは、ヨワシです。

 

皆さん、「もし」という言葉をよく使って我々とは別の世界について思いをはせているということをよくしていると思います。

たしかに別の世界は理想であるのかもしれません。

しかし、世界というものはどれも単独で単独な存在なのです

 

例えば、身近なところでいうのならば、

皆さんは寝ている間に「夢」というものを見ています。

これも外部の人間が干渉してくることのない、単独の世界です。

 

中国には、この「夢」にまつわる一つのお話があります

 

胡蝶の夢です

 

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荘子』齊物論第二

原文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
書き下し文
昔者荘周夢に胡蝶と為る。栩然として胡蝶なり。
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。 俄然として覚むれば、則ち蘧々然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。
訳文
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。

 夢と現実は、間違いなく違う世界です。夢が現実に干渉することもないですし、現実が夢に干渉することもありません。

 

しかし、荘子は夢の自分も現実の自分もどちらも自分であると自覚しています。

 

それぞれの世界がもっている単独のエッセンスを早くも感じ取って、ちゃんとどの世界でも単独を保つ。

まさに私たちが見習うべき考え方ではないのでしょうか。

 

みなさんはこの胡蝶の夢について、どう感じますか?

 

今日はここまで。ヨワシでした。

 

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